クラブ情報

沿革・チームの歴史

沿革

2003年8月豊洋精工株式会社とソイテックスジャパン株式会社の社員にて活動開始
2004年4月大分県4部リーグ参戦、監督に花田功氏就任
2005年4月大分県3部リーグ昇格(4部廃止に伴い)、監督に渡辺慎也氏就任
2006年4月大分県2部リーグ昇格、監督に元日本代表増田忠俊氏就任
2007年4月大分県1部リーグ昇格
2009年監督にGKコーチのブレノエンヒケバレンチン氏(ブラジル)が昇格
大分県1部リーグ優勝、各県決勝大会を優勝し九州リーグ昇格を決める
2010年九州サッカーリーグ参戦、九州リーグを優勝するも地域決勝1次ラウンド敗退
2011年九州リーグ優勝、地域決勝大会決勝ラウンド3位となり、JFL昇格を決める
(1位YSCC、2位藤枝MYFC、3位HOYO大分、4位SC相模原)
2012年第14回JFL参戦、リーグ15位、監督に結城治男氏就任
2013年第15回JFL、リーグ15位
2014年第16回JFL、リーグ7位
2015年第17回JFL、リーグ10位
2016年監督に佐野達氏就任、第18回JFL、リーグ13位
2017年第19回JFL、リーグ14位
2018年監督に須藤茂光氏就任、第20回JFL、リーグ9位

チームの歴史

ヴェルスパ大分は2003年8月豊洋精工株式会社工場長室で現在の清原オーナーにサッカークラブを立ち上げたいという社員の声の元、協力企業のソイテックスジャパン株式会社の社員らでHOYO FCとして活動を開始。
活動当初、半分は未経験者の集まりでヘディングもできない選手などもおり、ポジション決めは清原代表が歩幅で測った50mのタイムでポジションをとっていったという状況。
一番足の速かったのは後に2代目の監督になる渡邊慎也氏の6.3秒。
余談だがこの年に立ち上げたサッカー部は2代目のHOYO FCであるということはあまり知られおらず初代のHOYO FCは清原オーナーの年代メンバーで数年前に結成、清原オーナー自身フォワードとして活動していたが、横瀬サッカー少年団に1-11で敗戦。徐々に活動休止となった。
ちなみにこの1点は清原オーナーのゴールであり、対戦相手の小学生にはのちにHOYO FCのキャプテンも務める了戒正広や馬場栄州等がいた。

2004年3月には大分県4部リーグに「HOYO FC」として登録。
ユニフォームはNIKE社製でブラジルカラーの上から黄・青・白。
4部リーグ3位の成績であったが、4部リーグ廃止に伴い3部昇格となる。

2005年地元のジュニアチーム「atletio ELAN」と合併し「HOYO Atletico ELAN」と改称。
花田 功 氏が初代監督に就任し大分県出身の元Jリーガー岩本 昌樹の加入など強化を本格的にスタート、正式に事務局を設置し公式ホームページを開設。
この年、岩本昌樹、了戒正広、馬場栄州、濱大樹、秋鹿栄等を中心に3部リーグを優勝、2部昇格を決め、第一回大分市長杯では初参戦初優勝の結果を残す。

2006年になると花田功監督に代わり、渡邊慎也氏が監督に就任。
ユニフォームを一新し、NIKE社製でALLブルーとなる。
また1982・1983年世代の大分県出身選手、清原裕輔、山中良二、渡里達郎、奥園将太、大平将、高山祐介、阿部達郎、杉崎祐太、古畑翼、吉田拓矢等を中心に新戦力が加入、2部リーグ優勝を決め1部昇格。
同年、全国クラブチーム選手権九州大会で初出場初優勝、全国大会は淡路島にて開催、決勝でFC加古川に敗れたものの準優勝を果たす。

2007年は天皇杯大分県社会人大会で優勝するも、大分県代表決定戦では3位、大分県1部リーグは3位と結果を残すことができず苦しい年に。

2008年九州リーグに昇格するために、鹿島アントラーズや大分トリニータに在籍した元日本代表の増田忠俊氏に指導を依頼するが前年と同じ3位の残念な結果となった。
しかしこの年からオフシーズンの2月には宮崎県でJクラブ(川崎フロンターレや大分トリニータなど)とのトレーニングマッチをしてもらうようになる。

2009年増田忠俊氏に正式に監督就任を要請し、HOYO初のプロ監督となる。
また後の監督となるブレノ・バレンチン氏(ブラジル)が日本文理大学GKコーチを辞任後、GKコーチに就任。
ユニフォームスポンサーにLINES社が付き、ALLレッドに一新し現在のチームカラーとなった。
同年元Jリーガー3名加入。
元名古屋グランパスエイトの鴨川奨、元ジェフユナイテッドの田中淳也、元サガン鳥栖の長谷川豊喜が加入、リーグで勝利を重ねていくが、8月に開催された社会人選手権九州大会と天皇杯大分県予選敗退での成績不振を理由に、増田忠俊氏に代わり、GKコーチのブレノ・バレンチン氏が監督に昇格。
チームの危機を任されたブレノ監督は強い精神力と人柄でチームを建て直し、大分県1部リーグを優勝。
各県決勝大会の準決勝、大隅NIFS(現FC KAGOSHIMA)戦で終了間際、田中淳也が倒されもらったフリーキックを、当時の鴨川奨キャプテンの劇的同点ゴール。
PK戦にもつれ、河江 泰平によるスーパーセーブ、最後のシュートを岩本昌樹が落ち着いて決め勝利、九州サッカーリーグ昇格を決め、ブレノ監督・清原代表の体が宙を舞った。
同大会決勝ではMSU.FCに勝利し初出場初優勝。
ブレノ監督は「イヤ マジ キセキ ホント スゴイヨ」と繰り返していた。

2010年九州サッカーリーグ参戦、この年、元水戸ホーリーホックの堀健人が加入。
リーグ初戦からその堀健人が爆発、得点王、アシスト王、MVPの三冠王に輝き、守備では田中淳也・長谷川豊喜を中心にリーグ最少失点、チームを優勝に導く。
九州サッカーリーグ初参戦初優勝は、大分トリニータ、ロアッソ熊本に続く3チーム目。
地域決勝大会では1勝1PK負け1敗で1次ラウンド敗退(HOYO 2-3 YSCC)(HOYO 2-2 SC相模原)(HOYO 1-0 レノファ山口)。
同年、天皇杯大分県代表決定戦では大分トリニータU18に勝利し初優勝、天皇杯出場を果たし、天皇杯1回戦ではホンダロックSCと対戦、長谷川豊喜のゴールで先制するも終了間際に逆転ゴールを許し、1-2で敗れ、惜しくも2回戦進出を逃す結果となった。

2011年チーム名を短縮するため「HOYO AC ELAN大分」に変更、4月には現在の練習場の上原サッカー場が人工芝化工事が終了し、人工芝での練習が開始。
6月にはJFL昇格へ向けて特定非営利活動法人大分スポーツ&カルチャークラブを設立。
九州サッカーリーグでは昇格初年度のFC KAGOSHIMAとの首位争いを制し連覇を達成。
社会人選手権大会や天皇杯本戦(HOYO 0-2 福岡大学)での成績不振に悩まされたが、全員で危機を乗り越え、地域決勝大会1次ラウンドは2勝1PK勝ち(HOYO 1-1 デッツオーラ島根)(HOYO 1-0 東京23FC)(HOYO 3-0 黒潮FC)決勝ラウンドへ。
大阪で行われた決勝ラウンドでは初戦のYSCCに大敗を喫し苦しい展開になるも、2戦目の藤枝MYFCにはPK勝ちし最終戦へ駒を進める。
この最終戦のSC相模原戦は引き分け以上でがJFLに昇格する可能性があり、絶対に負けられない一戦であった。
中嶋雄大の先制ゴール、そのあとSC相模原にゴールを許し同点、負けられない一戦で試合を決めたのは2007年に入団した原一生だった。
後半途中出場、ファーストタッチで振りぬいた左足ミドルシュートはゴール左隅に突き刺さる劇的な勝ち越し弾で、この試合を2-1で勝利、1勝1敗1PK勝で3位、JFL昇格を決めた。
ブレノ監督は九州サッカーリーグ昇格に続く2回目の昇格監督となり、この時も「イヤ マジ キセキ ホント スゴイヨ」と繰り返してた。

2012年ブレノ監督がGKコーチに異動し、監督に結城治男氏が就任。
JFL参戦を果たし初年度は15位という結果に終わるが、天皇杯大分県代表決定戦では九州総合スポーツカレッジに8-1で勝利し3連覇を達成。
天皇杯一回戦では長崎総合科学大学付属高校に3-0で勝利するが2回戦の東京ヴェルディ戦にて0-3で敗れ2回戦敗退となった。
この年の12月、チームをJFLまで導いたブレノ・バレンチン氏が退団。
「ホント シアワセデシタ」と言葉を残しブラジルへ帰国する。

2013年チーム名を「HOYO大分」に変更。
JFLでは「一ケタ順位」を目標に活動、一時順位を10位まで上げるも、9月以降に連敗があり、最終的には15位に終わった。
同年、天皇杯大分県代表決定戦で日本文理大学に5-0で勝利し4連覇を達成した。
天皇杯1回戦では三菱重工長崎SCに2-1で勝利し、2年連続の2回戦進出、2回戦では初の大分ダービーとなるHOYO大分vs大分トリニータが実現し、0-2で敗戦、大分サッカーの歴史に残る一戦となった。この年の12月にチーム名を「ヴェルスパ大分」に変更、「HOYO」という名称に愛着はあったが、今後更に飛躍し、地域に根差したチームを目指すため、名称変更を行った。